エリック・サティの家

これも学生時代のもの。「写楽の家」と同じ企画、異なる年の住宅のアイディアコンペ案です。

当時の自分は、メキシコの建築家、ルイス・バラガンの作品に強く惹かれていました。
頭デッカチで理屈っぽい学生だったと自覚しているのですが(今も十分理屈っぽいか)、このころ初めて建築に関して『気持ちいい』という感覚を覚え、そのことを肯定的に「真面目に」取り組もうとしていたのです。今から考えると、なんだか人間として未熟すぎて、笑っちゃうような話ですが、とにかく、このコンペ案には、その時の自分の「考え」がよく現れています。

彼(バラガン)の作品はそのビビッドで魅力的な色彩で広く知られています。
ですが、当時の自分は、もう少し別の「自分なりのツボ」を彼の作品の中に探していました。
メキシコに実際に行くことは出来なかったので、写真と平面図を交互に睨みながら、「この『快』はどこからくるのか?」を考えー
あるとき、ある仮説、というか、それこそ「ツボ」を発見したように思ったのです。

それは
1)「この『快』は、さまざまな『空間』が『交差』する場所で生まれている」
2)「空間にはそれを生じさせる媒体(メディア)があり、色彩はその一つである」
ということでした。

ここで言う「空間」は、「一つの『纏まり』を持っていると感じられるヴォリューム」というくらいの意味合いです。

「交差領域」と名付けた(別に自分が初めてというわけではないと思いますが)この現象は、改めて周りを見渡したとき、
たとえば、

・一つの方向性を持った空間を「横切る」別の空間の気配
・水を湛えたプールに「貫入してゆく」階段
・中庭と外気で「繋がりながら同時に」屋内である回廊
・桂離宮、松琴亭の深い軒の下に「内外判然としない形で」配された竈がまえ

などにも潜んでいるように感じられました。

もう一つの「空間にはそれを生じさせる媒体(メディア)がある」ということについては、

例えば「パリのキャフェ」で書いた「レッドカーペット」のように面的なもの。広場にぽつんと置かれたブランクーシの彫刻のように点的なもの。様々な「フレーム」のように立体的なもの。それぞれが、帯状に、放射状に、ヴォリューム状に、「空間」を発生させ、それら異なる「空間たち」が「交差」するところに自分の好む「快」が生まれるのだ、と考えたのです。


ずいぶん長い説明になりましたが、
そんなことを考えていた私がコンペ案作りのためにサティのあるピアノ曲を聴いていたとき、右手と左手の旋律が、和声法的というより対位法的に、ときおり不協和音を響かせながら、絡まりつつ進行するのがとても「快」だと感じたのです。

それで考えついたのが、
「地面下で交わされる 右手と左手の響き 彼と彼らの対話が 地面上に作品化する」
というコンセプト文でした。

土中に埋められた二つのヴォリューム、青いヴォリュームと、赤いヴォリュームがあり、それらは一つのコーナーで「交わって」います。そしてその交わった部分のみが、地上にガラスのキューブとなって浮き上がる、というストーリーです。もしも、「赤」や「青」が、それぞれ「空間」を「一つのもの」として纏める力を持っていないならば、壁が赤かろうが、床が青かろうが、それらはひと続きの埋設された床や壁に過ぎないはずです。「色」が、物体を「空間」として意味付けるから、そこに「空間同士の交わり」が「ある」と認識されるのだ、と考えたわけですが。。

コンセプトの文章にも現れていますが、「交差領域」には「他者との関わり」への期待と重なる部分があり、自分自身が年齢的に(?)そういう時期だったんだな、とも思います。

この案も、アイディアができたのが相当遅かった上に、縦横それぞれ2°ずつ傾斜するヴォリュームが貫入する様子を図面化し、
さらに模型化することに手間取っているうち、やはり提出は間に合わなくなってしまいました(笑)。

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